2020年4月24日
私は、拙稿「新型コロナウイルス感染流行の経済上の脅威及びそれに対する経済政策の提言」にて、対新型コロナウイルス感染流行経済政策を論じました。
ここで、私は、対新型コロナウイルス感染流行財政として、企業の利益保障を提案しました。
それだけです。
企業に利益を補償すべきと論じましたが、国民個人に所得を補償すべきとは論じませんでした。
なぜでしょうか。もちろん、理由があります。
第一に、所得補償だけでは、企業の倒産を防ぐことができないからです。
なぜ企業の倒産を防ぐべきかは、拙稿「新型コロナウイルス感染流行の経済上の脅威及びそれに対する経済政策の提言」で論じました。
国民は外出を自粛します。日本政府や地方政府から休業を要請される企業もあります。
その時、国民がどれだけ所得を持っていようと、利益を計上できない限り、企業は廃業します。
一方、企業の利益を保障すれば、企業を守ることができます。さらに、企業が雇用を守り、従業員に賃金を支払うことで、国民の所得を保障することもできます。
よって、企業の利益保障は、企業と国民の所得を、一定程度ですが、同時に守ることができます。
第二に、国民に所得を公平に補償することは、困難だからです。
「いやいや、一律でカネを給付するだけ。マイナンバー制度もあるし、何よりもカンタンじゃん。」
と思われたでしょうか?
しかし、それは誤りです。
国民に対する一律の給付は、国民の所得を増やす方法としては公平であっても、国民に所得を補償する方法としては、全く不公平です。
例えば、国民一人当たり毎月2万円を給付するとします。
これは、国民の毎月の所得を同額2万円増やすため、公平です。
例えば、国民に所得を毎月10万円補償するとします。これは、不公平です。
なぜなら、人によって10万円の価値が異なるからです。
例えば、月収30万円(年収360万円、賞与を除く)の人にとって、10万円は収入の33%です。つまり、本来の収入の33%が補償されることを意味します。
しかし、月収50万円(年収600万円、同)の人にとって、10万円は20%しかありません。すなわち、本来の収入の20%しか補償されないことを意味します。
家計は、毎月の決まった収入を前提として生活しています。これを前提として、人生を設計しています。
この前提が壊れるほど、日々の生活、人生設計が壊れることになります。
つまり、本来の収入の33%が補償される人に比べて、20%しか補償されない人は、より人生における毀損が大きくなります。
例えば、部屋を借りて住んでいる人は、毎月の収入を前提として、選んだ部屋の家賃を支払っています。
しかし、本来の収入の33%が補償される人と20%しか補償されない人がいれば、不公平ではないでしょうか。
例えば、クルマや住宅をローンで購入する人は、毎月の収入を前提として、購入する対象を選んでいます。
例えば、土地を持っている人は、毎月の収入を前提として固定資産税を支払っています。
ゆえに、国民に一律給付する方法では、国民に所得を公平に補償することができません。
「いや、国民の所得格差を小さくできるのだから、むしろ良いのでは?」
と思われた方がいらっしゃるかもしれません。
しかし、所得税の累進課税制度によって、国民の所得格差は既に小さくなっています。
もし「国民の所得格差はまだ大きい」と考えるのであれば、それは所得税制度の変更(累進課税の強化)によって解決すべきです。
よって、対新型コロナウイルス感染流行財政の所得補償によって所得格差を是正しようとすることは、不適切です。
このように、一律給付によって国民に所得を補償するべきではありません。
一方、企業の利益を同率で保障すれば、まだしも国民の所得を公平に保障することができます。
例えば、企業の利益が7割保障されれば、従業員、つまり働く国民の所得も、単純ですが、概ね7割保障されると考えられるからです(強調しますが、あくまで単純に考えた場合です)。
もし企業の利益を保障するより容易に国民に所得を公平に補償する方法があれば、それでも良いのかもしれません。
しかし、私にはその方法を考えることができませんでした。果たして、そのような方法はあるのでしょうか?
ところで、国民にカネを給付すべきではないのでしょうか?
ここで指摘したように、対新型コロナウイルス感染流行財政の所得補償としては、国民にカネを給付すべきではありません。
しかし、不況対策としては、国民の所得を増やす政策は有効です。
そして、一律に給付することで、国民の所得を公平に増やすことができます。
私は、既に拙著「ゼロから経済を考える 経済学ではない新日本経済論考への招待」で、国民にカネを一律給付すべきであると、最低手取り政策の必要性と有効性を論じています。
以上、今回は、対新型コロナウイルス感染流行財政として、国民の所得補償は不適切であることを論じました。
皇紀2680年4月24日
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